新年より、うれしいニュースです!
朱神父様は、1月3日(日)より日向教会のみの主任司祭となられます。
・ 延岡、日向、ウルスラ修道院、学院、幼稚園の園長と激務をこなされていましたが、 延岡教会にサレジオ会の竹
内神父様が着任されることになり、日向教会の司牧と幼 稚園園長としての任務に着かれることになりました。どうぞよろしくお願いいたします。
・ 日曜日のミサは 1月3日より 9時30分 からとなります。
1月の祝日・行事・予定
1日(金) 元旦 神の母聖マリア 世界平和の日 ミサ:8時30分
3日(日) 主の公現 ・馬小屋を片付けます ミサ:9時30分
10日(日) 主の洗礼
17日(日) 年間第3主日 18日~25日 キリスト教一致祈祷週間
24日(日) 年間第3主日
(神のことばの主日)
31日(日) 年間第4主日 世界こども助け合いの日 (献金)
・竹内神父様によるクリスマスミサは、荘厳な中にも明るいお説教で心和みました。 24日のミサが終り一人になった神父様は、牛乳を沸かしトースターをつけたところでブレーカーが下り真っ暗に!はて?ブレーカーの場所が分からない! 暗闇の中でのパニック!イエス様の誕生によって人は暗闇におびえるのではなく、共に歩み、共に生き、 イエス様が弱さや罪までも背負って下さったので私たちは光の中で安心! だからクリスマスおめでとう! この喜びを周りの人にも告げ知らせましょう… それにしても遠路大分よりはるばる来て頂いたのに、イヴは牛乳とトースト、25日朝 も牛乳とトーストをひとりで召し上がったのですね。 本当にありがとうございました。 延岡でこれからも何かとお世話になります。
小宮さんの俳句・・・・・
雨音に覚めて初夢忘れけり宮日評 :
淡々として滋味。句に、生き方に年輪がうかがわれる。
【 朱神父様より 】
教皇フランシスコ 「 ヨセフ年 」 を宣言
2020年12月8日 ~ 2021年12月8日 教皇フランシスコは12月8日、聖ヨセフがカトリック教会の保護者として宣言されて から150年を迎えるにあたって、2020年12月8日から2021年12月8日を「ヨセフ年」 とすることを宣言しました。
教皇は同日、使徒的書簡「パトリス・コルデ」(父親の心で)を発表し、イエスの養父 としての聖ヨセフの優しさやあふれる愛、神からの召命への従順さ、父親としてあらゆる ことを受容し、創造性をもって行動した勇気、質素な労働者としての姿、目立つところが なかった生き方に触れています。聖ヨセフは執り成しの人、苦難の時に支え、導いてくれ る人」だと教皇は記しています。
使徒的書簡は福者ピオ9世教皇が1870年12月8日に聖ヨセフを「カトリック教会の 保護者と宣言してから150年を記念して発表されました。教皇フランシスコは使徒的書簡で、新型コロナウイルスのパンデミックが続く中で、聖ヨセフが示してくれているのは、日々の困難を耐え忍び、希望を示して
いるが、決して目立つことのない「普通の人々」の大切さだと強調しています。 ヨセフは福音書の中で何もしゃべりません。ただ彼は「正しい人」(マタイ1・19)で あって「主の天使が命じたとおり」(同1・24)にしたのです。この主から命じられた とおりにしたという信仰による従順が彼の生涯の出発点でした。
このヨセフの信仰が マリアの信仰に出会い、そしてマリアの信仰を支え続けたのです。マリアが信仰によって 救い主の母となったように、ヨセフもまた信仰によって救い主の養父とならました。 このⅠ年間、ヨセフ年を迎えたわたしたちもヨセフのように、黙々と神のみ心に従って 行くことができるようにお祈りしたらと思います。
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聖堂についてちょっと考えてみませんか?
聖堂の中心は、十字架、ご聖櫃 そして祭壇 左手にはヨセフ様、右手にはマリア様 静かに祈る場所心のよりどころ花は祭壇の中央に一か所あれば十分 花を飾らない教会もあるそうです。 大事なものから目がそれないようにと。財政が厳しい小さな教会は尚更のこと。庭の花を捧げることはすてきなことです 園児がマリア様にお花をささげる姿もかわいいですね
【 朱神父様の勉強会 】
1.待降節の二つの特徴
待降節は二重の特徴を持って
います。主の第Ⅰの来臨(受肉―降誕)の追憶と第2の 来臨(終末時)の待望。この理由で待降節は愛と喜びに包まれた待望の時となります。 待降節の4週間は復活祭を準備する四旬節と同じですが、四旬節のように悔い改めの 季節ではありません 第Ⅰ主日から順に「目覚めて待つ」「主の道を整える」「主は近い、喜べ」「みことばは 人となった」をテ―マに、各主日にふさわしい聖書の朗読箇所が選ばれています。この 4週間が第Ⅰ主
日から12月16日までと、12月17日から24日までの2つに分かれていま す。前者では終末的な来臨(第2の到来)の待望が表現され、後者は第Ⅰの到来、すなわち受肉の祝いのための準備期間とされています。
典礼歴の根底にある霊性 ラテン語“iam sed nondum(すでに、しかしいまだ)”という表現は、典礼を理解する 上で非常に重要な点です。典礼暦年全体が、この精神の下に構成されています。 教会の信仰は「待望」です。わたしたちが確認できる言葉によって約束された神の契約 は必ず実現するという信仰による「待望」です。
「すでに」が示す第一の約束は「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身にな りますように」と言われたマリアの信仰のゆえに、彼女を救い主の母として実現したこと を、典礼は顕現周期(主の降誕と公現)を中心に示します。
そして「いまだ」が第2の 到来に向けての信仰です。
わたしたちは「すでに」(iam)、約束が成就したことを信じています。 しかし後半の 「いまだ」(nondum)ついては誰も知りません。 イエスは、「ひとの子は雲に乗って再び来る」と、それは「だれも知らない。天使たちも 子も知らない。父だけがご存じである」と答えます(マルコ13章)。ですからわたしたち ももちろんその時を知りません。
けれども、御父のみ心にかなうものであるその方の到来によって、御父はかって約束さ れたことは成就したのです。
だから今度は、その救い主イエスが新しいイスラエルの民と なった弟子たちに約束するそれも、同じように必ず実現するという信仰が「いまだ」なの です。この二つのことが、典礼を深く理解する上で重要な点です。 この「いまだ」とは、待つことです。たとえば、奉献文の聖別の祈りの後、 「信仰の神秘」と唱えます。これは「すでに」を指しています。
そして次の「主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで」は「……」のついた形で、つまり「主が来られるまで完成しないという終末的ニュアンスで終わります。そして主が再臨されるその時に、父である神は「来られるまで」に「。」を付けて完成してくださるでしょう。このように教会は「すでに」と「いまだ」の間を旅しています。
「キリストの神秘を祝う」から
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